井上円了検定問題の解説

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問1 正解【2】

井上円了は安政5年(1858年)に越後の国長岡西組浦村(現在の新潟県長岡市浦村)にある真宗大谷派慈光寺の長男として誕生しました。東洋大学の保護者の会である『甫水会(ほすいかい)』の名前の由来にもなっています。

問2 正解【1】

井上延陵は、井上八郎、井上清虎とも呼ばれ、宮崎県延岡市に生まれました。少年時代の山岡鉄舟に剣の手ほどきをした剣客です。明治維新後は浜松城代などを務めたり、第二十八銀行頭取を務めたりして浜松の町の発展に寄与しました。

問3 正解【1】

建設当初は4面あり、現在とはコートの向きが異なっていました。大正9年(1920年)に熊谷一彌、柏尾誠一郎がアントワープ五輪で銀メダルを獲得し、大正11年(1922年)には日本庭球協会(現、日本テニス協会)が発足するなど、当時の日本のテニス界は大変盛り上がっていたようです。

問4 正解【1】

井上円了はことば遊びが大好きで、哲学堂七十七場の中にも駄洒落のような名前がつけられたものも数多くあります。お墓のデザインも自分の名前をもじったかたちとなっています。

問5 正解【1】

哲学館事件(明治35年/1902年)を契機として、円了は明治39年(1906年)に大学運営から身を引きました。そのとき、私立哲学館の移転用地であった土地を大学から買い取り精神修養や社会教育の場としてつくりあげたのが現在の哲学堂です。何もなかった土地に最初につくられたのが四聖堂で、建設当初はこの四聖堂が哲学堂と呼ばれていました。四聖堂は、哲学館大学開設・哲学館事件・修身教会発展・日露戦争の4つを記念して建てられ、明治37年(1904年)に完成しました。

問6 正解【1】

円了が31歳の時に最初の世界旅行に出かけています。明治21年(1889年)6月に出発して、1年間をかけてアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、エジプト、イエメン、中国という東回りのコースを巡りました。円了はその旅行中に立ち寄ったフランスでパリ万博を見学しています。

問7 正解【1】

絶対城が建設された大正4年当時、煙草は一般的な嗜好品でした。明治31年(1898年)には葉煙草専売法が制定され、煙草による税収が国税における大きな割合を占めるなど、老若男女を問わずどこでも吸われていました。

問8 正解【1】

かつて、妙正寺川を挟んだ南側には『野方遊楽園』という遊園地があり、この中に水月亭という料亭がありました。

問9 正解【3】

哲学堂が建設される以前は、妙正寺川を望む崖線には茶畑が広がっていました。明治時代の地図にも桑茶の地図記号がみえます。現在もその名残と思しきチャノキを公園内で見ることができます。

問10 正解【2】

哲学堂野球場がつくられた土地も私立哲学館の用地の一部でしたが、井上円了が哲学堂建設のために買い取った土地には含まれていませんでした。昭和50年(1975年)に東京都が学校法人東洋大学(私立哲学館の後身)から買い取り、同年中野区が東京都から買い取り、4月1日より中野区立公園の一部になりました。

問11 正解【1】

コックリ(狐狗狸)さんは、日本全国で知られる占いの一種で、人の手が勝手に動く現象は心霊現象だと信じられてきました。井上円了は全国で調査を行い、下田沖で難破したアメリカ船の船員が現地人に伝えたテーブル・ターニングという遊びを船乗りが全国各地の港で伝え広まったこと、現象は人間の潜在意識、精神作用、不覚筋動による作用であることを解明しました。

問12 正解【2】

勝海舟は幕末を代表する偉人として知られていますが、私立哲学館の運営を陰で支えた功労者『哲学館の三恩人』のひとりでもありました。海舟は円了の志に大いに感心し、校舎建設のための多額の資金援助のほか、全国巡回講演において訪問先の紹介状を託したり、寄付金のお礼に揮毫書を贈るようにと自筆の書を円了に渡しました。現在、閻魔大王像と不動明王画像は中野区(中野区歴史民俗資料館)が、文殊菩薩像は東洋大学が所蔵しています。

問13 正解【2】

円了は自らの蒐集物を分野別に分類し、玉石同架式(貴重なものもそうでないものも入り混じっている状態)で展示棚に納めました。

問14 正解【3】

第二次世界大戦以前は駐車場付近に桃林がありましたが現存していません。ちなみに中野区には5代将軍綱吉の時代にお犬様収容施設『お囲い(犬小屋)』がつくられ、総面積は100haにも及んだそうです。その後8代将軍吉宗の命によってお囲いがあった場所に桃園が造られました。現在はその多くが住宅地に姿を変えましたが、中野区立桃園小学校や桃園橋といった名前にその名残が伺われます。

問15 正解【1】

新勝寺の貫主となった石川照勤が第一回卒業生のなかにいます。

問16 正解【1】

荀子は中国春秋戦国時代末期の思想家で、人間は終生学び続けることによって自らを改善しなければならないと説いています。『青は藍より出て藍より青し(弟子は師匠より優れている)』という成語は有名です。円了が荀子を卒業論文の主題に選んだ理由は、『荀子』のもつ科学的・経験論的な思考様式に魅了されたためと考えられ、その後の妖怪学(科学的に迷信を解明する)や全国巡回講演(生涯学習)といった活動にも影響を与えています。

問17 正解【1】

井上円了の著書『哲学堂一人案内』には、目白駅も人力車が使える近在の駅として記されていましたが、最寄り駅の中野駅から歩くとあります。江古田駅は円了の生前にはまだ開業していませんでした。

問18 正解【2】

向上楼には円了の書斎がおかれていました。当時の写真が現存しています。ちなみに、無尽蔵にお風呂はありませんでしたが、円了は温泉好きで、避暑避寒のためしばしば湯治に出かけていました。

問19 正解【3】

六賢台には大きな屋根があり、その重みで建物を上から押さえつけることで揺れを小さくするとともに、六面に荷重を均等分散させることでバランスをとっているといわれています。

問20 正解【1】

哲学堂の用地となった和田山には昔から天狗松と呼ばれる大きな松の木があり、天狗松を切ろうとする天狗が現れて邪魔をしたという伝承が伝わっていました。昭和8年に枯れてしまい現存していませんが、円了が六賢台を天狗松のたもとに建設したことから、伝承になぞらえて天狗の顔を象った屋根瓦をつくりました。屋根瓦の天狗の顔は全て異なり円了のこだわりが感じられます。

問21 正解【1】

無尽蔵の屋根には鴟尾(しび)という飾り瓦がおかれています。鴟尾はシャチホコの原型ともいわれ、鴟吻(しふん)という中国の伝説上の生き物を象っています。鴟吻は竜が生んだ9匹の子ども(竜生九子不成竜)の一匹で魚に似るといわれており、転じて火災除けの縁起物として3世紀頃から中国で建物に飾られていたといわれています。また、仏教では摩竭魚(まかつぎょ)といって、水を操る力があるものとされています。

問22 正解【1】

当時、哲学堂野球場は東洋大学の所有地でしたが、施設の運営権は東京都にありました。昭和20年8月に撮影された写真が現存しており、食糧増産のため芋畑であったことがわかっています。

問23 正解【2】

『哲』の字が彫られているのはぜひその目で確認してください。また、哲学堂と同じく大工の山尾新三郎が建設にたずさわっていた池上本門寺には、『本』の字が彫られた軒丸瓦があります。

問24 正解【2】

明治~大正時代には清水峠にトンネルが開通していなかったので、清水峠を越えて群馬県から新潟県に入ることは一般的ではありませんでした。

問25 正解【3】

現存する昭和60年に唯心庭を撮影した写真では、心字池は埋まっていて広場のようになっていました。平成3年(1991年)に中野区により実施されたルネッサンス整備工事において現在の姿に復元されました。

問26 正解【3】

円了の全国巡回講演活動は大きく前期と後期とに分けられます。前期は哲学館・京北中学校の創立のため、後期は社会教育としての修身教会運動と哲学堂の建設のために行われました。全国巡回講演活動の第1回目となる講話を、明治23年(1890年)11月2日(日)に神奈川県中郡大磯町で行ったことが、著書の旅行日誌『館主東海道筋巡回日記』に記されています。

問27 正解【1】

安房の小湊(現在の千葉県鴨川市)には『おせんころがし』という太平洋岸の崖路を通る難所がありましたが、円了がそこを通った時に人力車から太平洋に転落しそうになったことが著書の旅行記『南船北馬集』に記されています。ちなみにこの書名は、‟南では船に乗って行き、北では馬の背にゆられて旅行く”との趣旨に由来しています。

問28 正解【2】

井上円了は講演のために当時最北端樺太島、最西端だった台湾島(日清戦争の結果、下関条約によって清国から割譲)に行っていますが、現在最北端の離島である礼文島や最西端の離島である与那国島には行っていません。現在の小笠原村域内では父島と母島で講演を行っており、お土産に購入した海亀のはく製が山﨑記念中野区立歴史民俗資料館に収蔵されています。

問29 正解【2】

このトイレから階段を下ったところに学会津(がっかいつ)という川岸があり、手を洗うことができました。円了は、人が俗世で生きる中で物欲などでたびたび心を汚してしまうことを、人が日常生活で用を足す際に手を汚すことに例え、汚れてしまった手(心)であっても、川の水(学問・真理の追及)で濯ぐことで、きれいな状態を維持することができるという寓意を込めています。

問30 正解【1】

『新東京名勝選外十六景』は、昭和7年に報知新聞が東京市の拡大を記念して一般投票で『新東京名八勝』を選びましたが、その入選を逃した中から選考委員が再選定したものが『選外十六景』です。哲学堂は『選外』の11位になります。真理界の手前の植栽地内に選外十六景の記念碑が建てられています。新井薬師の記念碑は山門から入って右手に建てられています。

問31 正解【1】

後天沼は扇子を広げたような形状をしており、それに架かる原子橋は扇の骨の部分に見立てられています。人間が生後様々な経験を経て生長してゆくこと(後天)と、原子が集合して物質を形成してゆくことを、扇のかなめを中心に扇の骨が放射状に広がった姿になぞらえています。

問32 正解【3】

主観亭の石机の表面には碁盤(19×19の格子)が刻まれています。主観とは、自ら物事を認識して行いを為すための『人間の自我』を指すといわれており、石机の碁盤は人が囲碁に没頭している状態になぞられているものと考えられます。ちなみに井上円了は明治時代に哲学飛将碁(てつがくとびしょうご)という囲碁と将棋のルールを折衷したようなボードゲームを開発しています。

問33 正解【3】

布袋は中国の唐代末期に実在したとされる伝説的な仏僧です。古くから絵画の題材として好まれ、大きな袋を背負ったふくよかな僧の姿で描かれています。七福神のひとりにも数えられ、手にした袋から財を出し与えてくれるとされています。哲学堂の布袋像は自然井から湧きだした水を布袋が袋を広げて受けている構図となっています。

問34 正解【1】

明治時代から大正時代にかけて、日本では急激な近代化による社会制度や経済の変化がおこり、これに対応できない多くの人々が移民として海を渡りました。井上円了はブラジルを訪れた際に日系移民の居住地に赴いて講演を行い、その際に状況調査を行っています。またペルーでも同様の調査を行っています。一方で、カナダには最初と2回目の世界周遊の際に訪れていますが、調査は行っていません。またグアテマラには入国していません。

問35 正解【1】

哲学堂建設の顧問は武田五一、大沢三之助、古宇田実の3人でした。ちなみにロンドン留学後に欧米を遊歴していた武田五一と2度目の海外周遊をしていた井上円了がアメリカのシアトルで出会い、横浜行きの同じ船に乗って帰国したことが円了の著『西航日録』に記されています。

問36 正解【2】

山尾の名前が明治43年(1910年)建立の龍口寺五重塔の棟札に記されています。本門寺五重塔は慶長13年(1608年)に、本土寺五重塔は平成3年(1991年)に建立されました。

問37 正解【1】

足目仙人(アクシャパーダ)の顔をよく見ると井上円了の顔をしています。黄帝とタレスについては後世につくられた絵や彫刻などがありましたが、足目仙人についてはデザインの参考となる資料がなかったため、井上円了の顔を拝借しました。

問38 正解【2】

哲学堂公園がある中野区松が丘は、今でこそ住宅地が広がる市街地ですが、円了が土地を購入した当時は、薪炭林や田畑が広がる農村でした。円了は、河川に近い低地部は湿気がこもりやすく衛生面で問題があったことから丘の上に学校をつくることを考えていました。加えて学生を誘惑する盛り場からなるべく遠ざけたいと考えていたことから、都心から離れた和田山の地が選定されました。ちなみに現在の東洋大学白山キャンパスも丘の上に建てられています。

問39 正解【1】

三字壇は実はベンチで、上空から見ると漢数字の『三』にみえるように配置されています。現在は赤いレンガでつくられていますが、哲学堂の建設当初は大理石でつくられていたといわれています。

問40 正解【2】

昭和30年代には、現在の児童遊園の部分がバスケットコートになっており、ゴールが置かれていました。

問41 正解【1】

円了は、明治天皇が重体であることを箱根で聞いて、旅先から東京に戻り、哲学堂で快癒を祈って身を慎んでいました。

問42 正解【2】

絶対城の2階は一部が吹き抜け構造になっており、天窓からの明かりが1階まで届くようになっています。ちなみに当時は絶対城の周囲に高い樹林がなかったため、観察境からは富士山を眺めることができました。

問43 正解【1】

かつての観象梁は、真横から見ると富士山に一つ雲がかかったような姿をしていました。円了は観象梁に富士桟(ふじさん)という別称をつけていました。

問44 正解【1】

かつての狸灯は信楽焼の狸のように菅笠をかぶっていました。日本で菅笠をかぶったタヌキの置物が作られるようになったのは18世紀頃といわれ、江戸時代の手まり歌の、『雨のしょぼしょぼ降る晩に 豆狸が徳利もって酒買いに』という一節に由来しているといわれています。

問45 正解【2】

哲学関と眞理界は共に哲学堂の門柱で、これより先の境内が『哲学上宇宙の真理を味わい、かつて人生の妙趣を楽しむところ』を表しています。哲学関の裏側には『大正二年建立』、眞理界の裏側には『堂主 井上圓了』と、それぞれ刻まれています。

問46 正解【2】

哲理門は哲学堂の正門ですが、通常は閉められていました。また理外門は哲学堂の裏門とさrていますが、円了の哲学観(理外の理)を表現するものとしてつくられた特殊なもので、通常は閉められていたものと考えられます。常識門は通用門として使用され、普段は入るのも出るのもこの門ひとつで行われていました。

問47 正解【3】

折口信夫は明治から昭和を生きた日本を代表する民俗学者・詩人です。歌人としても知られ北原白秋らとともに反アララギ派を結成するなど幅広く活動しました。折口信夫が文京区の学校に講師として通っていた頃に鑚仰軒に寄宿しており、歌集にも鑚仰軒のことが記されています。

問48 正解【2】

円了は、日本を代表する碩学として、神道から平田篤胤、儒教から林羅山、仏教から釈凝燃を選びました。

問49 正解【3】

哲学堂八景とは、私立哲学館の用地として購入した土地について、円了がその景観を評価したものです。すなわち、一、富士暮雪 二、御霊帰鴉 三、玉橋秋月 四、氷川夕照 五、薬師晩鐘 六、古田落雁 七、鼓岡晴嵐 八、魔松夜雨 の八つを指します。

問50 正解【2】

円了は、人が物事について結論を得る過程を、唯心庭から時空岡につながる2つの道になぞらえて表現しています。1つ目の道は認識路という迂回路で、人があれこれ思考し推理しながら結論に到達することを表現しています。2つ目の道は直覚径という最短路で、思考や推理を待たずにいきなり結論に達するヒラメキを表現しています。円了は直覚と直角をかけるということば遊びで、直覚径を途中で道が折れるような構造としました。

問51 正解【1】

『尾無毛泉不白』とは、『尾に毛無し、泉に白無し』と読み、無いとされる文字を除いて組み合わせることで『尿』という漢字ができあがります。

問52 正解【1】

私立哲学館の創設時に円了が東京府に提出した履歴書に記されています。

問53 正解【2】

1度目の望遠橋は、ロープで吊り籠を渡す『野猿』のようなユニークな形をしていたと考えられています。2度建設されましたがいずれも洪水で流されました。井上円了は、唯物園から見て、妙正寺川を挟んだ川むこうを星の世界(星界)に例え、星界洲に渡る橋に、観象(気象を観察すること)を望遠鏡といった天文観察に関係した名前をつけています。

問54 正解【1】

井上円了は、中国旅行の最後の訪問地であった現在の中国・大連(だいれん)市での講演中に亡くなりました。日露戦争の終結後、その講和条約であるポーツマス条約に基づき、中国の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた地域の租借権がロシアから日本に移行して『関東州』となりました。当時の大連は関東州(日本の統治下)に含まれたことから、全国巡回講演の開催地となりました。

問55 正解【2】

聖哲碑のレリーフは、明治28年に井上円了の依頼により橋本雅邦が描いた掛け軸『四聖』が元となっています。『四聖』は現在、東洋大学井上円了研究センターに所蔵されています。

問56 正解【3】

西郷孤月は、横山大観、下村観山、菱田春草と並ぶ橋本雅邦門下四天王のひとりで、最も将来を嘱望されていました。雅邦の四女・榮と結婚しましたが、ある酒席で雅邦と激突して以降、酒と遊蕩に明け暮れるようになり、それが要因で1年を待たずに離婚、その後は転落の人生を歩むこととなりました。大正元年(1912年)に台湾へ渡り『台湾風景』を描きましたが、病に倒れ、帰郷後に亡くなりました。孤月と円了の自宅は同じ町内にあり、そうした縁もあって意気投合したのかもしれません。

問57 正解【1】

孔子は中国春秋戦国時代の思想家で、儒家の始祖といわれています。なぜ絶対城に孔子像が置かれているのかは不明ですが、四聖のひとりに選ばれていること、孔子の教えの中に、『真』、『善』、『美』、『聖』、『用』、『健』があり、円了が真理とした『真』、『善』、『美』が含まれることなどが理由として考えられます。

問58 正解【1】

六賢台の天井には鐘の他、六賢人の肖像画(油絵)が置かれていました。鐘は失われてしまいましたが、六賢人の肖像画は現在、無尽蔵の1階に飾られています。円了は著書『哲学堂ひとり案内』の中で、六賢台の鐘を打つ際のルールを定めていて、『2回続けてガンガンと続けて打つのを3回ずつ繰り返すこと』としています。

問59 正解【1】

宇宙館の屋根のてっぺんには、垂纓(すいえい)という冠をかたどった瓦が置かれています。これについて井上円了は『烏帽子』と記していますが、それは正確ではありません。

問60 正解【1】

天狗松は『和田山や一本高し天狗松』という句が読まれるほどの大木で、天狗が住んでいるとされていました。一方で、円了の自宅では庭の梅の木の下に女の幽霊が出るという噂がたち、調べてみたところ室内のランプの光線が梅の枝に映ったものが幽霊にみえたことがわかりました。円了はこの一件を『幽霊の正体見ればランプなり』と面白がり、この梅を『幽霊梅』と名付け、天狗松に嫁がせるために哲学堂に移植しました。

問61 正解【3】

井上円了は、迷信を科学的に打破するという立場から妖怪を研究し、『妖怪学講義』などを著したほか、全国巡回講演のテーマに『迷信と妖怪』を頻繁に取り上げていたため、『妖怪博士』『お化け先生』とよばれ親しまれていました。円了が亡くなった時はアメリカでも報道され、『Ghost Doctor』として紹介されていました。

問62 正解【2】

一元牆の一元とは『全ての物事の根源がただ一つである』という意味です。円了はそれを『真理』と考えました。円了は迷信や偏見に満ちた多元(物事の根源がたくさんある)的な俗世界と、真理を探究する哲学世界を隔てるものとして、一元牆を置きました。

問63 正解【1】

昭和15年当時、日本では第二次世界大戦の機運が高まっていました。玄一は現在のつつじ園から菖蒲池周辺にかけてのエリアに須弥園という園地をつくることを計画し、そこに新たな建物を建立して釈迦涅槃像と聖徳太子立像を納めようと考えていましたが、社会全体が戦争ムードになる中で大量の物資を哲学堂の拡張工事に投入することは難しく、結局は断念することとなりました。そのため先行して制作した像の置き場がなくなってしまい、四聖堂と宇宙館に置かれることとなりました。この2つの像を乾漆造りにした理由は、金属で制作した場合、いずれ軍に接収され銃弾などの材料とされてしまう可能性が高かったため、後世に残すことを目的として乾漆造りとしました。

問64 正解【2】

和田嘉平治はイタリアに渡りさまざまな彫刻技術を学びました。人物像の黒目の部分を丸く彫り抜くことで、その中に自然の陰影を生み、正気を宿した目元にするというテクニックもその一つで、和田嘉平治の作品の特徴になっています。

問65 正解【2】

小さい部屋は『皇国殿(こうこくでん)』といいます。円了は建物内を『世界に見立てたうえで、皇国殿を『世界万国の中の最も美なる日本』になぞらえました。宇宙館の入口の柱に掛けられている聯には『宇宙万類中人類為最尊(宇宙万類の中、人類をもっとも尊しとなす)』『世界万国内皇国為最美(世界万国の内、皇国をもっとも美しとなす)』と書かれています。

問66 正解【1】

硯塚には『園中既有筆 塚矣硯豈可 無塚哉喩諸 人筆為男則 硯為女筆為 夫則硯為婦 二者相依而 産字育文哲 学成予乃為 之媒妁耳於 是築硯塚云』と刻まれています。これを訳すと、『園内には既に筆塚がある。どうして硯をモチーフにした塚のないことが許されるだろうか。諸々の人が『筆が男であれば、硯が女である。』『筆が夫であれば、硯は妻である。』と喩えている。二つのものは互いに頼りにし合って字を生み出し、文を育み、哲学が完成した。私はだからこれらの媒酌をするのである。これが硯塚を築く理由である。』となります。ちなみに硯塚には縁起を記した漢文とは別に、『哲学堂正気歌』という漢詩も刻まれています。

問67 正解【3】

記念碑に刻まれている日下寛撰文には、『絶対城が大正天皇の即位を記念して建てられた。円了が和田山の地に心身を養うための遊息の園(公園)をつくった。四聖堂・六賢台・三學亭にそれぞれ哲学者を祀っている。唯心庭と唯物園がある。全てのところに名前がつけられている(哲学堂七十七場)。絶対城には6,792種41,585巻21,193冊の書物が所蔵されている。井上円了の志は東西の文明を合体させて拡充することにあり日本全国はおろか世界中を休憩もせずにくまなく歩きまわり民を導いている。その活動の集大成が哲学堂であり絶対城を訪れた者は自分(日下寛)が抱いたような感動を得ることができる。』といった内容が書かれています。

問68 正解【2】

ガラスは文明開化を期に建物に利用されるようになったといわれています。当時の板ガラスは、手吹き円筒法(鉄パイプにガラスをつけたのち、息を吹き込んで膨らませ、伸ばして円筒形にしてから縦に切り開く)という製造方法を用いてつくられていました。高度な技術を要し国内での量産化に成功する明治40年代までは輸入品に頼っていました。ガラス板は大正時代でも非常に高価なもので、現在のように一般家庭で使用されるようになるのは昭和初期になってのことでした。

問69 正解【3】

円了の蒐集品目録の中に『幽霊の手』というものがあります。品物は人の手のかたちをした木彫物です。

問70 正解【2】

四聖堂の天井の中心には世界創生を象徴する卵(黄身と白身)をモチーフとしたガラスが張られ、それを中心とした放射状の垂木を配することで宇宙の神髄から放たれる真・善・美の光を表現しています。そのガラスの黄身にあたる部分から『心』をあらわす赤いガラスの球燈が下げられ、球燈の真下に位置するように、白身にあたる部分から『物』をあらわす黒い四角い香炉が下げられました。円了は、香を炊いた際に生じる煙を『心を汚す物欲』になぞらえ、煙で燻され煤けた球燈も、拭きあげればもとのきれいな状態に戻るのと同じように、俗塵で汚れた心も真理の追究を通じて清められ正しく保つことができるということを表現しています。

問71 正解【1】

四聖堂の本尊は『唱念塔』とよばれる石柱です。表面には『南無絶対無限尊』と刻まれています。

問72 正解【3】

四聖堂は四面が正面の建物で、それぞれの面に四聖がひとりずつ祀られています。この建築意匠は『四聖堂に祀られる四聖が、時代の古い新しい、洋の東西に関係なく、優劣がなく素晴らしい』ことを表現しています。四聖堂ではその年に祀る四聖の面を正面としており、哲学堂祭において交代の儀式が行われています。

問73 正解【2】

哲学堂において風呂があった建物は、管理人が住まう鑚仰軒だけでした。髑髏庵の髑髏とは俗塵にまみれた心の死をあらわしており、霊化した心が復活廊を通って、鬼神などの霊的存在が住まう世界に蘇ることで哲学的な心眼を開き、哲学堂に入る心の準備を行うことをあらわしています。

問74 正解【1】

霊明閣は円了の特別な客を迎えるための迎賓室でした。

問75 正解【3】

髑髏庵は入場料を取ったり、記念品を販売したり、茶菓の提供をしたりということに使われていました。髑髏庵の入口からみて左側の壁には格子窓があり、客が常識門から時空岡に入る前に、この窓口で入場手続きを行っていました。

問76 正解【3】

カイのノキは孔子の木とも呼ばれ、もともとは中国の孔子廟(孔子を祀る霊廟)に植えられていた木です。大正4年(1915年)に、中国から初めて日本の林業試験場に持ち込まれ、そこから苗木が全国に配られました。

問77 正解【2】

哲理門には、円了が書いた『物質精気凝為天狗(物質の精気凝りて天狗となり)心性妙用発為幽霊(心性の妙用発して幽霊となる)』という聯が掛けられており、物質界の不可思議を天狗、精神界の不可思議を幽霊に例え、それぞれをかたどった木像が置かれています。ちなみにもうひとつ『棹論理舟溯物心之源(論理の舟に掉さし、物心の源にさかのぼり) 鞭理想馬登絶対之峰(理想の馬鞭うちて、絶対の峰に登る)』という聯がかけられており、『未知なる物質界と精神界の不可思議を論理で解き明かすことが哲学の理想である』という円了のメッセージが書かれています。哲理門は平成31年度に修復工事が実施され、幽霊像と天狗像はつくられた当初の姿を復元したレプリカに入れ替えられました。オリジナルは修復後に中野区歴史民俗資料館に収蔵されています。

問78 正解【1】

日本において男女同権という倫理観が一般的になったのは第二次世界大戦後と言われており、大正時代においても女性の社会的地位は低かったと考えられます。円了は女性が人の目を気にせずに読書を楽しめるよう『婦人閲覧室』をつくりました。

問79 正解【1】

『造化』とは『天地万物を創造し育てること』を意味します。静岡県富士宮市にある白糸の滝のように崖の途中から水が染み出していたことが、自然のこととはいえ不思議なものに思え、このように名づけられました。

問80 正解【2】

八畳の下段の間に四畳半の上段の間とあわせて十二畳半となります。

問81 正解【1】

近年埋められてしまいましたが、本来相対渓は排水路としての役割を持つものでした。宇宙館や絶対城の脇から、演繹観のそばを通って庭外に流れるようになっていました。

問82 正解【1】

哲学堂は、大きく、時空岡、唯物園、唯心庭の3つのゾーンに大別できます。唯物園と唯心庭は哲学の二大陣営である唯物論と唯心論をテーマとした庭園です。この二論は相容れず対立するものですが、円了はどちらか一方を正しい(間違っている)とは考えず、唯物園では自然科学の発展の構図を、唯心庭では心の構造を具現化することで、それぞれの特徴を紹介しています。一方で、時空岡は、古今東西の哲学者を祀る建物や、講義堂、図書館、博物館といった真理を探究する施設が一同に集合する場所であり、哲学の時間(歴史)と空間の広がりを象徴するものとして『時空岡』と命名されています。

問83 正解【2】

関東バス、国際興業バス、京王バスが停車するバス停として『哲学堂』、『哲学堂公園入口』、『哲学堂東』、『哲学堂下』の4つがあり、他に都営バスの『哲学堂』というバス停が『哲学堂東』と同じ場所にあります。

問84 正解【2】

現在の妙正寺川は荒川水系の神田川の支流です。荒川沿川では明治元年(1868年)~明治43年(1910年)の間に、床上浸水などの被害をもたらした洪水が10回以上発生しています。こうした洪水被害は沿川の土地利用が水田から工場や住宅地に変化したことで拡大しました。特に明治43年(1910年)の大洪水は関東平野全体に甚大な被害をもたらし、明治44年(1911年)に荒川放水路(現在の荒川本流の新岩淵水門下流)工事が着手される契機となりました。荒川放水路工事は昭和5年(1930年)に完成しました。

問85 正解【2】

『館主巡回日記』と『南船北馬集』のなかで、講演した記録が唯一ない当時の道府県庁所在地が奈良です。柳生などその後合併して奈良市になっているところでは講演しています。

問86 正解【3】

円了は面白いかたちや色の石を好んで蒐集しており、集められた石は現在中野区歴史民俗資料館に収蔵されています。円了は、「万有ことごとく妖怪にして、日月も妖怪なり、星辰も妖怪なり、風雨山川またみな妖怪ならざるはなし」と述べているように、広大無辺の世界(=自然)こそ、哲学(真理の追究)を通して解明すべき真の妖怪(理外の理)であると考えていました。円了にとって珍しい小石も魅力的な宝物だったのでしょう。

問87 正解【3】

円了は、妖怪を『実怪』と『虚怪』とに二分し、さらに実怪を『真怪』と『仮怪』に、虚怪を『偽怪』と『誤怪』に分類しました。実怪とは不思議な自然現象のことで、真怪とはその時代の科学では解明できない現象、仮怪とはその時代の科学で証明(説明)できる現象と定義されています。一方で、虚怪とは自然現象ではないものを指し、偽怪とは人が意図的につくりだしたもの、誤怪とは人の見誤りによるものと定義されています。

問88 正解【2】

正確には、52,494.08㎡であり、東京ドーム(建築面積)の大きさに換算すると1.1個分といった広さを誇ります。

問89 正解【1】

昭和19年当時は戦時中で、陸軍は本土防衛のため現在の哲学堂野球場あたりに高射砲陣地をつくろうと計画していました。高射砲陣地がつくられれば爆撃機の攻撃目標となり哲学堂が焼失してしまう可能性がありましたが、民間団体である財団法人哲学堂では陸軍からの要請を拒むことができないため、東京都に公園として寄贈することとしました。

問90 正解【1】

明治35年(1902年)に発生した『哲学館事件』は円了が私立哲学館の運営から身を引くこととなった直接原因であり、哲学堂の建設を目指すこととなったターニングポイントでもありました。円了は、公立の高等師範学校(現在の大学にあたる)にのみ許認可されていた教員無試験検定資格(卒業と同時に中等教員免許を得る)を私立学校にも開放するべきと唱え、明治32年(1899年)、私立哲学館、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)の3校に文部省から教員無試験検定資格が与えられました。しかし、明治35年(1902年)に行われた私立哲学館の卒業試験において、『動機が善でも悪となる行為はあるか』という出題に対し、学生が『結果だけをみて善悪を判断してはいけない。そうしなければ、自由のための弑逆も罪となってしまう』と回答したものを、試験監督の隈本有尚が『私立哲学館の教育方針は、自由のためには目上の者(天皇を含む)を殺してもよいというもので、国家規範を脅かす危険な思想である』と文部省に報告したことから、私立哲学館の教員無試験検定資格が取り消されてしまいました。明治39年(1906年)に円了は一連の責任をとるかたちで私立哲学館大学(1903年に私立哲学館から改称)を去ることになり、同時に私立哲学館大学は私立東洋大学に再改称され、明治40年(1907年)に教員無試験検定資格が再認定されました。

問91 正解【3】

円了の著書『哲学堂ひとり案内』において『其他松林中に哲學史蹊を設け、此に哲學者の年表を掲示せう哲史塀がある』という記述がありますが、哲学史蹊も哲史塀も現在は失われており、どういったものであったかは不明です。

問92 正解【1】

数理江は唯物園に属するものとして、物理世界の研究の基礎である数学と理科を象徴して名付けられました。

問93 正解【1】

哲学の庭には『相互理解のために』という銘板が置かれています。ワグナー・ナンドールが遺した『私は文化、宗教などの相違点よりも各々の共通点を探しているのです。共通点を通してしかお互いに近づくことはできないのです。という言葉の通り、哲学の庭のデザインは、異なった文化を象徴する古今東西の宗教・哲学・法を代表する偉人たちが、『真理』を表現した球体の周囲に立ち、一様に『真理』のある方向をむいている構図となっています。

問94 正解【1】

第三の輪は、法の輪で、異なった時代に於いて各々方を作り、現存する法律の主流を作った人々がつくる輪です。哲学の庭には11体の人物彫刻があり、第一の輪には、老子、キリスト、釈迦、アブラハム、エクナトンの6人、第二の輪には達磨大師、聖フランシス、ガンジーの3人、第三の輪には聖徳太子、ユスチニアヌス、ハムラビの3人が、それぞれ配置されています。

問95 正解【2】

哲学堂公園が東京都名勝に指定される以前、昭和59年(1984年)に古建築物6棟(哲理門、四聖堂、六賢台、三學亭、宇宙館、絶対城)が、昭和63年(1988年)に新たに4棟の建物(常識門、髑髏庵、鬼神窟、無尽蔵)と公園全体(時空岡、唯心庭、唯物園の区域)が中野区有形文化財に指定されています。

問96 正解【1】

井上円了は、世界旅行や全国巡回講演の際に、民具や新仏像といった品々を持ち帰り、哲学堂の六賢台と無尽蔵に収蔵して公開していました。

問97 正解【2】

平成25年(2013年)時点では、中野区と新宿区の哲学堂公園から2km以内の範囲に建物名や店舗名に『哲学堂』が含まれる物件が107ありました。他にもPhilosophyなどの『哲学』をモチーフとして命名されたものもあります。

問98 正解【1】

中井に住んでいた林芙美子が子供との散歩で哲学堂によく訪れていました。

問99 正解【3】

哲学堂の東北にあった四つ塚と呼ばれた塚のひとつから江古田ヶ原沼袋合戦のものと見られる人骨が刀や槍先などとともに発掘されました。江古田ヶ原沼袋合戦は室町時代後期の文明9年(1477年)に武蔵国江古田原・沼袋(現在の中野区江古田・沼袋付近)で太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦です。哲学堂公園にほど近い江古田公園には江古田古戦場の碑があります。

問100 正解【3】

円了は、『暗黒なる造化の幽玄神秘(天地万物を創造する根源となった不可思議なもの)』を表現するものとして神秘洞という石窟をつくりました。神秘洞から湧き出た水は『進化溝』に入って一筋の流れとなり流末の小池『理化潭(物的世界を研究する自然科学)』に至ります。また理化潭の岸辺を『博物堤(動物・植物・鉱物・地質、古生物などに関する研究)』といいます。『自然科学は神羅万象の不可思議を究明しようとする取り組みだが、天地万物の進化の根源を遡れば、自然科学でも解明できない神秘の世界に入ってしまう。唯物論の究極も同様である。』という意味が込められています。